meaningfulness

読書ノート

『論考』 2.0123-2.0124

  • タイトルに『論考』とある一連の記事は、Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus (1921) の読書ノートです。
  • 翻訳の底本には Routledge が1961年に出した独英対訳版の第2版を使っています(英訳は D. F. Pears と B. F. McGuiness による)。独文は Suhrkamp が出しているウィトゲンシュタインの Logisch-philosophische Abhandlung に依拠しているらしいです。
  • 邦訳は野矢茂樹訳(岩波書店、2003)を参考にし、基本的に訳語もそれに倣います。
  • 原文をアフォリズム番号と共に載せ、その下に翻訳とコメント(ただのパラフレーズであることが多い)を書いていくという形式にしようと思っています。

 

2.0123    Wenn ich den Gegenstand kenne, so kenne ich auch sämtliche Möglichkeiten seines Vorkommens in Sachverhalten.

    (Jede solche Möglichkeit muß in der Natur des Gegenstandes liegen.)

    Es kann nicht nachträglich eine neue Möglichkeit gefunden werden.

 私が対象を知っているならば、私はその対象が諸事態において出現する全ての諸可能性をも知っているということになる。

 (そのような可能性の各々全てが、その対象の本性の内に存しているのでなければならない。)

 後になって、ある新しい可能性が見つかるということはありえない。

 

コメント

 前回のコメントで書いたように、ある語を使えるためには、その語が出現しうる可能的な文脈を全て知っている必要がある。言い換えるならば、ある語を使えるというからには、その語のまともな使用とまともでない使用を区別できるのでなければならない。イルカに対して極めてわずかな知識しかもっていないような人であっても、「イルカ」という語の使い方を知っているのならば、「イルカは魚類だ」がまともな文で、「イルカは2で割り切れる」がまともな文でない、という区別はできているのでなければならない*1

 同様に、ある対象aについて、それが他の対象と結びつく全ての可能性を知っていることは、対象aを知るための必要条件である。ざっくりとしたイメージで語るなら、イルカについて知っている我々は、空飛ぶイルカのような非現実的な光景ですらイメージすることができるが、ℚ→ℝで単射であるようなイルカはイメージすることができない、といったところだろうか*2

 また、ある対象aについて、aがその内に出現しうる事態の可能性の全てが、aの本性の内に存していると述べられている。そして、後になってaの本性に新しい可能性が追加されるということはありえない*3

 

 2.01231    Um einen Gegenstand zu kennen, muß ich zwar nicht seine externen —— aber ich muß alle seine internen Eigenschaften kennen.

 ある対象を知るために、たしかに私はその対象の外的な諸性質を知らなくてもよい。しかし、私はその対象の内的な諸性質の全てを知らなければならない。

 

コメント

 外的な諸性質とは、その対象について現にどういう事実が成り立っているかということだろう(その対象についての経験的知識)。イルカの例で言うならば、「イルカ」という語を使えるようになるために、イルカが哺乳類であるということまで知っている必要はない。ただし、それが他の語と結びつく仕方は知っている必要がある。2.0123では「そのような[事態において出現する]可能性の各々全てが、その対象の本性の内に存しているのでなければならない」と述べられたが、この「本性」が2.01231では「内的性質」と呼ばれていると思われる。

 

2.0124    Sind alle Gegenstände gegeben, so sind damit auch alle möglichen Sachverhalte gegeben.

 あらゆる諸対象が与えられているならば、それら諸対象とともに、あらゆる可能的な諸事態もまた、与えられている。

 

コメント

 「与えられている」という表現が使われているが、これまでに合わせて「知っている」と置き換えてもそれほど問題は生じないだろう。全ての対象を知っている者は、全ての可能的な諸事態も知っている。

 これまで言われてきたことから何となく出てきそうではあるが、それほど自明でもないように思える。2.0124を論証するためには、対象と事態の関係をもう少し細かく規定する必要がありそうだが(集合と要素の関係なのか、関数の入力と値の関係なのか、等)、それはこの読書ノートにおいて先送りにしてきた課題である。

 

振り返り

 割とすんなり理解できている気がするが、対象と事態の関係とか、内的性質って結局どういうものなのかとか、ちょっと突っ込むと分からないところも多い。特に、「対象」によって何を考えるかは割と見解の分かれるところであるらしい。その辺り、今後も留意したい。

*1:ここでは「まとも」という概念を極めて素朴に使っているが、まともな文をまともでない文から(統語規則以外の根拠で)区別するものは何か、というのが私の知りたいことなのだ。

*2:「ざっくりとしたイメージ」というのは、「対象」の例としてイルカ個体などをイメージするのは恐らく適切ではないから。

*3:これはどうなんだろう。我々が知らなかっただけで、実はイルカも関数の一種だと後から分かった、なんて場合には、上で挙げた不可能性の例は可能的になってしまうのでは? こういう例を作れるのは、イルカという不徹底な例で考えているからなのかもしれない。