meaningfulness

読書ノート

『論考』 2.0121

  • タイトルに『論考』とある一連の記事は、Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus (1921) の読書ノートです。
  • 翻訳の底本には Routledge が1961年に出した独英対訳版の第2版を使っています(英訳は D. F. Pears と B. F. McGuiness による)。独文は Suhrkamp が出しているウィトゲンシュタインLogisch-philosophische Abhandlung に依拠しているらしいです。
  • 邦訳は野矢茂樹訳(岩波書店、2003)を参考にし、基本的に訳語もそれに倣います。
  • 原文をアフォリズム番号と共に載せ、その下に翻訳とコメント(ただのパラフレーズであることが多い)を書いていくという形式にしようと思っています。

 

2.0121    Es erschiene gleichsam als Zufall, wenn dem Ding, das allein für sich bestehen könnte, nachträglich eine Sachlage passen würde.

    Wenn die Dinge in Sachverhalten vorkommen können, so muß dies schon in ihnen liegen.

    (Etwas Logisches kann nicht nur-möglich sein. Die Logik handelt von jeder Möglichkeit und alle Möglichkeiten sind ihre Tatsachen.)

    Wie wir uns räumliche Gegenstände überhaupt nicht außerhalb des Raumes, zeitlche nicht außerhalb der Zeit denken können, so können wir uns keinen Gegenstand außerhalb der Möglichkeit seiner Verbindung mit anderen denken.

    Wenn ich mir den Gegenstand im Verbande des Sachverhalts denken kann, so kann ich ihn nicht außerhalb der Möglichkeit dieses Verbandes denken.

 仮に、それ自身のみで存立しうるような物に対して、後からある状況が当て嵌まる、といった具合ならば、それ[物が状況の中に現れたこと]*1はあたかも偶然であるかのように見えるだろう。

 諸物が諸事態の内に出現しうるならば、この物は既にそれら諸事態の内に存しているのでなければならない。

 (ある論理的なものが可能的であるにすぎないということはありえない。論理はいかなる可能性をも扱い、あらゆる諸可能性は論理の諸事実である。)

 空間的諸対象を空間の外に、時間的諸対象を時間の外に思い浮かべることが全くできないように、私たちは、いかなる対象も、その対象が他の諸対象と結合する可能性の外では思い浮かべることができない。

 私が対象を事態という連合において思い浮かべることができるならば、そのとき私はその対象をこの連合の可能性の外では考えることができない。

 

コメント

 2.012でやった路線で考えるならば、対象と結合操作を指定してもその対象が他の対象と結合しうるか分からない、といったケースが反事実的に挙げられていることになる。

 事態‐文、対象‐語というアナロジーがどこまで通用するか分からないが、一旦言語表現との類比で考えてみよう。

 「イルカは哺乳類である」という文は真であるが、それが真であることは偶然的であるように思える。「イルカ」という語の意味を知っていても、それが「哺乳類」という語と結び付いてできた「イルカは哺乳類である」という文が真であることは直ちには知られないからである。実際、「イルカ」という語の有意味な使い方を完全に理解していながらイルカは魚類であると誤解している子どもというのは考えられる。こういったケースに対応するのが、2.0121で「偶然であるかのように見える」と言われていることだろうか。

 次に、「イルカ」以外の日本語の意味を完全に理解しているような主体を考える。こうした主体にとって、「イルカ」と他の語を組み合わせてできた文が有意味であるかどうかは、「イルカ」という語の意味の理解だけから決まる。この場合、「イルカは魚類である」という文が有意味であることや、「イルカは素数である」という表現が無意味であることは、「イルカ」が動物の種の名であることさえ理解していれば知られる。

 対象同士の結合可能性ということで考えられているのは、上の後者の例に対応するようなものなのではないか。そして、論理は全ての可能性を扱うのだから、たとえ成立はしていなくても、可能的な事態であれば全て論理空間に属している。一方で、決して結合しえない諸対象の組み合わせも存在するだろう。そういった組み合わせは論理空間に属していない。他の全ての語に対して、その語と結びついたときに有意味な文を作れるか、ということの理解が「イルカ」という語の理解に既に含まれているように、ある対象aが他の対象bと結び付いて事態を構成しうるのならば、〈a, b〉あるいは〈b, a〉に対応する事態が必ず論理空間に属する*2

 丸括弧の挿入も同様のことを述べているように思われる。しかし、この箇所における「可能的であるにすぎない」とか「事実」とかいった言葉はミスリーディングでは? 「可能的であるにすぎない」とは普通、可能的だが現実には成り立っていない事柄に対して言われることで、だから、成立していない事態は皆「可能的であるにすぎない」と言われうると思われる。「論理の諸事実」という表現も、論理空間に属する可能的な事態全てを指しているのだろうが、論理空間の部分集合である〈成立している事態〉としての事実の集合と混同されうる。

 その次の段落では上記の主張内容が空間・時間の比喩でもって説明されている。「空間」という語に引きずられがちだが、空間的対象にとっての空間にあたるのは、対象にとっては論理空間ではなく事態だろう。対象は事態の構成要素として導入されているので、定義上、いかなる事態の構成要素でもないような対象というものを考えることはできない。

 最後の段落で言われているのは次のようなことだろう。ある対象を考えることができるためには、その対象を構成要素としてもつ可能的な事態を全て知っている必要がある。ところで、その対象をある事態の構成要素として考えることができるならば、その事態は可能的なのであり、それゆえ、その事態は、その対象を考えるために知られていなければならない諸事態のうちのひとつである。よって、その事態の可能性を知らなければ、その対象を考えることはできない。

 

振り返り

 2.012で打ち出した路線でそれほど間違っていない気はしてきた。論理空間の定義から天下り式に説明してゆく、という方式が採られていないので、〈論理空間は可能的な諸事態全ての集合である〉ということを前提してしまうと、何が説明されているのか分からなくなるのかもしれない。あと、最後の段落へのコメントで「ある対象を考えることができるためには、その対象を構成要素としてもつ可能的な事態を全て知っている必要がある」と書いたが、こんなことはまだ明示的には言われていない。しかし、これを前提しないと読めないように思える。

*1:訳者挿入は[]で示す。

*2:しかし、これは論理空間の構成からして自明では? とも思ったが、よく考えると論理空間の定義はまだなされていない。この箇所では、可能的な事態であれば必ず論理空間に属する、ということが、論理空間の定義に先立って強調されている、ということなのかもしれない。