meaningfulness

読書ノート

『論考』 2-2.012

  • タイトルに『論考』とある一連の記事は、Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus (1921) の読書ノートです。
  • 翻訳の底本には Routledge が1961年に出した独英対訳版の第2版を使っています(英訳は D. F. Pears と B. F. McGuiness による)。独文は Suhrkamp が出しているウィトゲンシュタインLogisch-philosophische Abhandlung に依拠しているらしいです。
  • 邦訳は野矢茂樹訳(岩波書店、2003)を参考にし、基本的に訳語もそれに倣います。
  • 原文をアフォリズム番号と共に載せ、その下に翻訳とコメント(ただのパラフレーズであることが多い)を書いていくという形式にしようと思っています。

 

2    Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten.

 成り立っていること、すなわち事実とは、諸事態のうちで存立*1しているもののことである。

 

コメント

 1の読解で既に先取りして使っていた箇所。可能な事態の集合の entrance condition に「xは存立している」を加えると事実の集合が得られる。事実の集合は事態の集合の部分集合である。なお、1.12(の前提)より、事態は成り立っているもの(事実)と成り立っていないものに二分されるといえる。

 

2.01    Der Sachverhalt ist eine Verbindung von Gegenständen (Sachen, Dingen).

 事態とは諸対象(諸事物、諸物)の結合である。

 

コメント

 これから、1.1で先送りにされていた、事態と物(対象)の関係が説明される。

 「結合」の意味はこれだけ読んでも全然分からない。今後の展開を見るに、文が語同士の結合であるように、事態は対象同士の結合である、といったことが言われていそう。すると、n項の対象結合操作ε_n(対象から事態への関数)のようなものを考えて、対象a_1, a_2, ...a_nについてε_n(a_1, a_2, ... a_n)がある事態eを値としてとる、という感じだろうか*2

 ところで、アフォリズム番号1番台には1.0番台がなかった。なぜだろう。

 

2.011    Es ist dem Ding wesentlich, der Bestandteil eines Sachverhaltes sein zu können.

 ある事態の構成要素になりうることは物にとって本質的である。

 

コメント

 〈いかなる物も何らかの事態の構成要素になりうる〉または〈いかなる事態の構成要素にもなりえない物は存在しない〉と読む。他の対象と結びつきえない孤立的な対象といったものを想定することが拒否されている。

 事態が文に、対象が語に対応すると考えるならば、語の意味はその語が出現する文の真理値への寄与であるという考え方と類比的か。

 話は変わるが、このアフォリズムにおいて「なりうる」が表現している可能性とはどういった意味における可能性なのだろう。1.21で『論考』における様相の扱いについて疑問を呈したが、基本的に『論考』のアフォリズムに「しうる」とか「しなければならない」とかいった表現が出てくると戸惑う。今は違和感や引っ掛かりの表明しかできないが、今後も様相については注意して読み進めたい。

 

2.012    In der Logik ist nichts zufällig: Wenn das Ding im Sachverhalt vorkommen kann, so muß die Möglichkeit des Sachverhaltes im Ding bereits präjudiziert sein.

 論理において偶然的なものはない。つまり、物が事態の内に現れうるのであれば、その事態の可能性は物において既に先取りされているのでなければならない。

 

コメント

 「論理において」や「偶然的」の意味は全然分からないので、後半のパラフレーズを手掛かりに考える。

 2.011より、tが対象→tがそれの構成要素でありうるような事態が存在する、といえる。その事態をeと名づけよう。このとき、eの可能性はtにおいて先取りされていなければならない……。

 これでも全然意味が分からないので、まず〈eが可能的である〉の意味を考える。単純化のため、eを構成する対象はaとbの2つしかないとする。すると、eが可能的であるということは、aとbの結合が可能的であるということである。逆に、eが可能的でないということは、aとbの結合が可能的でないということである。aとbの結合が可能的でないというケースはあるのだろうか? 2.01では結合を、対象を入力すると事態を返すような操作として考えた。ここでは2項操作ε_2を考えるとして、その操作の定義域が対象の集合上の2項関係であるならば、そこからとって来られた順序対〈a, b〉をε_2に入力したら、必ずある事態eが返されるはずである。aとbの結合が可能でないというのは、ε_2(a, b)が定義されていない場合であり、それは要するに〈a, b〉が対象の集合上の2関係の要素でない場合であり、aかbが対象でない場合である。逆にaもbもちゃんと対象の集合に入っているならば、ε_2をちゃんと定義してやればaとbの結合は可能になる。aとbの結合が不可能であるとはどういう状況だろう?

 もしかすると、どんな対象x, yに対してもある事態zを返すような万能な2項結合操作など存在しないのかもしれない。結合操作には様々な種類があり、どの操作の定義域も対象全体の集合上の2項関係を覆ってはいない。そのため、ある操作に対して対象を適当に2つ入力してもその値は定義されていないということがありうる。つまり、対象a, bに対して、それらの結合が可能的であるというのではだめで、それらの結合がこれこれの操作に対しては可能的、といわなければならない。ということは、2.011の主張も2項結合については次のようになるのではないか。〈tが対象→〈t, y〉あるいは〈y, t〉がある2項結合操作ε_2の定義域に属するような対象yが存在する〉。

 この線でいくと〈eの可能性はtにおいて先取りされていなければならない〉はどうなるだろう。〈ある2項結合操作ε_2について、〈t, y〉あるいは〈y, t〉を入力したときの値が定義されているようなyが存在するか否かは、tの選び方だけから決まる〉。

 すると、「論理において偶然的なものはない」の意味は〈いかなる結合操作に対しても、ある対象がその操作によって何らかの別の対象と結びつけられて何らかの事態を構成しうるかどうかは、最初の対象の選び方だけから決定される〉となる。あるいは、事態構成可能性判定関数みたいなものが存在して、そいつに対象と結合操作をひとつずつ入力してやれば結合可能性か結合不可能性かのどちらかを出力してくれる、ということか。

 

振り返り

 意味が分からなすぎて長い話をでっち上げてしまった。多分間違っている気がするが、とりあえずこういう方針で理解するとして、今後おかしい点に気づいたら修正していきたい。

 

 

*1:野矢訳は「成立」。der Fall sein を「成り立っている」と訳したので、区別するために bestehen を「存立している」と訳す。

*2:n項? たとえば、he, is, a, boy という4語に対して He is a boy. という文を返す操作は4項操作である。しかし、he, is, a, tall, boy という5語に対しては? 5項操作が必要になる。すると、必要な操作の種類は無際限に増える。文結合(文と文をくっつけて文を作る)の場合、単純な2項操作をいくつか定義すれば、その操作を繰り返し適用することでいくらでも複雑な文を作れる。しかし、語から文を作るときにはそう単純にはいかないように思える。同様のことが対象の結合にも当て嵌まる?