meaningfulness

読書ノート

『論考』 2.0123-2.0124

  • タイトルに『論考』とある一連の記事は、Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus (1921) の読書ノートです。
  • 翻訳の底本には Routledge が1961年に出した独英対訳版の第2版を使っています(英訳は D. F. Pears と B. F. McGuiness による)。独文は Suhrkamp が出しているウィトゲンシュタインの Logisch-philosophische Abhandlung に依拠しているらしいです。
  • 邦訳は野矢茂樹訳(岩波書店、2003)を参考にし、基本的に訳語もそれに倣います。
  • 原文をアフォリズム番号と共に載せ、その下に翻訳とコメント(ただのパラフレーズであることが多い)を書いていくという形式にしようと思っています。

 

2.0123    Wenn ich den Gegenstand kenne, so kenne ich auch sämtliche Möglichkeiten seines Vorkommens in Sachverhalten.

    (Jede solche Möglichkeit muß in der Natur des Gegenstandes liegen.)

    Es kann nicht nachträglich eine neue Möglichkeit gefunden werden.

 私が対象を知っているならば、私はその対象が諸事態において出現する全ての諸可能性をも知っているということになる。

 (そのような可能性の各々全てが、その対象の本性の内に存しているのでなければならない。)

 後になって、ある新しい可能性が見つかるということはありえない。

 

コメント

 前回のコメントで書いたように、ある語を使えるためには、その語が出現しうる可能的な文脈を全て知っている必要がある。言い換えるならば、ある語を使えるというからには、その語のまともな使用とまともでない使用を区別できるのでなければならない。イルカに対して極めてわずかな知識しかもっていないような人であっても、「イルカ」という語の使い方を知っているのならば、「イルカは魚類だ」がまともな文で、「イルカは2で割り切れる」がまともな文でない、という区別はできているのでなければならない*1

 同様に、ある対象aについて、それが他の対象と結びつく全ての可能性を知っていることは、対象aを知るための必要条件である。ざっくりとしたイメージで語るなら、イルカについて知っている我々は、空飛ぶイルカのような非現実的な光景ですらイメージすることができるが、ℚ→ℝで単射であるようなイルカはイメージすることができない、といったところだろうか*2

 また、ある対象aについて、aがその内に出現しうる事態の可能性の全てが、aの本性の内に存していると述べられている。そして、後になってaの本性に新しい可能性が追加されるということはありえない*3

 

 2.01231    Um einen Gegenstand zu kennen, muß ich zwar nicht seine externen —— aber ich muß alle seine internen Eigenschaften kennen.

 ある対象を知るために、たしかに私はその対象の外的な諸性質を知らなくてもよい。しかし、私はその対象の内的な諸性質の全てを知らなければならない。

 

コメント

 外的な諸性質とは、その対象について現にどういう事実が成り立っているかということだろう(その対象についての経験的知識)。イルカの例で言うならば、「イルカ」という語を使えるようになるために、イルカが哺乳類であるということまで知っている必要はない。ただし、それが他の語と結びつく仕方は知っている必要がある。2.0123では「そのような[事態において出現する]可能性の各々全てが、その対象の本性の内に存しているのでなければならない」と述べられたが、この「本性」が2.01231では「内的性質」と呼ばれていると思われる。

 

2.0124    Sind alle Gegenstände gegeben, so sind damit auch alle möglichen Sachverhalte gegeben.

 あらゆる諸対象が与えられているならば、それら諸対象とともに、あらゆる可能的な諸事態もまた、与えられている。

 

コメント

 「与えられている」という表現が使われているが、これまでに合わせて「知っている」と置き換えてもそれほど問題は生じないだろう。全ての対象を知っている者は、全ての可能的な諸事態も知っている。

 これまで言われてきたことから何となく出てきそうではあるが、それほど自明でもないように思える。2.0124を論証するためには、対象と事態の関係をもう少し細かく規定する必要がありそうだが(集合と要素の関係なのか、関数の入力と値の関係なのか、等)、それはこの読書ノートにおいて先送りにしてきた課題である。

 

振り返り

 割とすんなり理解できている気がするが、対象と事態の関係とか、内的性質って結局どういうものなのかとか、ちょっと突っ込むと分からないところも多い。特に、「対象」によって何を考えるかは割と見解の分かれるところであるらしい。その辺り、今後も留意したい。

*1:ここでは「まとも」という概念を極めて素朴に使っているが、まともな文をまともでない文から(統語規則以外の根拠で)区別するものは何か、というのが私の知りたいことなのだ。

*2:「ざっくりとしたイメージ」というのは、「対象」の例としてイルカ個体などをイメージするのは恐らく適切ではないから。

*3:これはどうなんだろう。我々が知らなかっただけで、実はイルカも関数の一種だと後から分かった、なんて場合には、上で挙げた不可能性の例は可能的になってしまうのでは? こういう例を作れるのは、イルカという不徹底な例で考えているからなのかもしれない。

『論考』 2.0122

  • タイトルに『論考』とある一連の記事は、Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus (1921) の読書ノートです。
  • 翻訳の底本には Routledge が1961年に出した独英対訳版の第2版を使っています(英訳は D. F. Pears と B. F. McGuiness による)。独文は Suhrkamp が出しているウィトゲンシュタインの Logisch-philosophische Abhandlung に依拠しているらしいです。
  • 邦訳は野矢茂樹訳(岩波書店、2003)を参考にし、基本的に訳語もそれに倣います。
  • 原文をアフォリズム番号と共に載せ、その下に翻訳とコメント(ただのパラフレーズであることが多い)を書いていくという形式にしようと思っています。

 

2.0122    Das Ding ist selbständig, insofern es in allen möglichen Sachlagen vorkommen kann, aber diese Form der Selbständigkeit ist eine Form des Zusammenhangs mit dem Sachverhalt, eine Form der Unselbständigkeit. (Es ist unmöglich, daß Worte in zwei verschiedenen Weisen auftreten, allein und im Satz.)

 訳

 物が自立的であるのは、それがあらゆる可能的な諸状況において出現しうる限りでのことである。しかし、この自立性の形式は事態との連関の形式であり、非自立性の形式なのだ。(諸語が、〈単独で〉と〈文において〉という、ふたつの異なる仕方で現れることは不可能である)

 

コメント

 前回、対象が事態の内でしか、したがって、他の何らかの対象との結びつきにおいてでしか存立しえないという主張を、語は文の中でのみ意味をもつという主張とのアナロジーで理解しようとした。今回もその路線を引き継いでいく。

 〈対象が事態の内でしか存立しえないと言うが、たとえば我々は「イルカ」という語だけを見るときでも何かを了解しているし、何なら具体的な動物の姿をイメージすることもできる。このように、語は文の中に現れなくても我々にとって意味をもつのだから、それと同様に、対象もそれ自体自立的なのではないか〉という反論が想定されているように見える。

 これへの応答は次のようになるかもしれない。

 「イルカ」という語がそれ自体で意味をもつように見えるのは、「イルカ」という語が出現しうる文脈を前提しているからでしかない。我々は「イルカが空を飛ぶ」とか「私はイルカに乗る」とか「イルカは魚類である」とかが「イルカ」の出現を伴う(真偽はともかく)可能的な文であるということを了解している。「イルカ」という語がどういった種類の文に出現しうるかということを理解せずに、「イルカ」という語を単独で見ても意味が分からないだろう。「イルカ」という語が自立的に見えるのは、それが様々な(おそらく無限個の)文において出現しうるからであるが(「将来イルカが進化して人間を支配する」とか「アンドロメダ銀河にはイルカによく似た知的生命体の棲む惑星がある」とか、いくらでも多様な文が作れる)、それらの文において出現しうるということなしに「イルカ」が意味をもつことはできない。だから、「イルカ」の意味はそれが出現しうる文(の意味)に依存している。これが上の引用で「非自立性」と言われていることだろうか。丸括弧内の挿入はこの解釈を裏づけるように思われる。「諸語が、〈単独で〉と〈文において〉という、ふたつの異なる仕方で現れることは不可能である」。語は文において現れるものであり、文を離れて語が単独で現れるための別の仕方などありはしない、とこの箇所は言っているように見える。

 しかし、「物が自立的であるのは、それがあらゆる可能的な諸状況において[…]」(強調は削除)という部分には少し引っかかりを感じる。あらゆる可能的な諸状況? 語の側で考えるならば、あらゆる可能的な文において出現する語など無いように思える。では、ここで自立的な物として考えられているものとは?

 ここでは「事態」ではなく、「状況」という語が使われている。これまで、文に対応するものとしては事態を考えてきたのだから、ここで言われている「可能的な諸状況」によって可能な文に対応するものを考えるのは適切でないかもしれない。上の解釈に合うように「可能的な諸状況」の意味を考えるなら、〈ある語に対して、その語が出現しうる可能な文の集合に対応するような事態の集合〉が相応しいのではないか。つまり、可能的な状況は対象に対して相対的である(「イルカ」という語にはその語特有の使い方があるように)。

 

振り返り

 最後の「状況」の解釈は思いつきだが、この後の箇所を見るにそんなに間違っていない気がする。今回書いたことは直後の箇所と併せて考えられるべきっぽい。

『論考』 2.0121

  • タイトルに『論考』とある一連の記事は、Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus (1921) の読書ノートです。
  • 翻訳の底本には Routledge が1961年に出した独英対訳版の第2版を使っています(英訳は D. F. Pears と B. F. McGuiness による)。独文は Suhrkamp が出しているウィトゲンシュタインLogisch-philosophische Abhandlung に依拠しているらしいです。
  • 邦訳は野矢茂樹訳(岩波書店、2003)を参考にし、基本的に訳語もそれに倣います。
  • 原文をアフォリズム番号と共に載せ、その下に翻訳とコメント(ただのパラフレーズであることが多い)を書いていくという形式にしようと思っています。

 

2.0121    Es erschiene gleichsam als Zufall, wenn dem Ding, das allein für sich bestehen könnte, nachträglich eine Sachlage passen würde.

    Wenn die Dinge in Sachverhalten vorkommen können, so muß dies schon in ihnen liegen.

    (Etwas Logisches kann nicht nur-möglich sein. Die Logik handelt von jeder Möglichkeit und alle Möglichkeiten sind ihre Tatsachen.)

    Wie wir uns räumliche Gegenstände überhaupt nicht außerhalb des Raumes, zeitlche nicht außerhalb der Zeit denken können, so können wir uns keinen Gegenstand außerhalb der Möglichkeit seiner Verbindung mit anderen denken.

    Wenn ich mir den Gegenstand im Verbande des Sachverhalts denken kann, so kann ich ihn nicht außerhalb der Möglichkeit dieses Verbandes denken.

 仮に、それ自身のみで存立しうるような物に対して、後からある状況が当て嵌まる、といった具合ならば、それ[物が状況の中に現れたこと]*1はあたかも偶然であるかのように見えるだろう。

 諸物が諸事態の内に出現しうるならば、この物は既にそれら諸事態の内に存しているのでなければならない。

 (ある論理的なものが可能的であるにすぎないということはありえない。論理はいかなる可能性をも扱い、あらゆる諸可能性は論理の諸事実である。)

 空間的諸対象を空間の外に、時間的諸対象を時間の外に思い浮かべることが全くできないように、私たちは、いかなる対象も、その対象が他の諸対象と結合する可能性の外では思い浮かべることができない。

 私が対象を事態という連合において思い浮かべることができるならば、そのとき私はその対象をこの連合の可能性の外では考えることができない。

 

コメント

 2.012でやった路線で考えるならば、対象と結合操作を指定してもその対象が他の対象と結合しうるか分からない、といったケースが反事実的に挙げられていることになる。

 事態‐文、対象‐語というアナロジーがどこまで通用するか分からないが、一旦言語表現との類比で考えてみよう。

 「イルカは哺乳類である」という文は真であるが、それが真であることは偶然的であるように思える。「イルカ」という語の意味を知っていても、それが「哺乳類」という語と結び付いてできた「イルカは哺乳類である」という文が真であることは直ちには知られないからである。実際、「イルカ」という語の有意味な使い方を完全に理解していながらイルカは魚類であると誤解している子どもというのは考えられる。こういったケースに対応するのが、2.0121で「偶然であるかのように見える」と言われていることだろうか。

 次に、「イルカ」以外の日本語の意味を完全に理解しているような主体を考える。こうした主体にとって、「イルカ」と他の語を組み合わせてできた文が有意味であるかどうかは、「イルカ」という語の意味の理解だけから決まる。この場合、「イルカは魚類である」という文が有意味であることや、「イルカは素数である」という表現が無意味であることは、「イルカ」が動物の種の名であることさえ理解していれば知られる。

 対象同士の結合可能性ということで考えられているのは、上の後者の例に対応するようなものなのではないか。そして、論理は全ての可能性を扱うのだから、たとえ成立はしていなくても、可能的な事態であれば全て論理空間に属している。一方で、決して結合しえない諸対象の組み合わせも存在するだろう。そういった組み合わせは論理空間に属していない。他の全ての語に対して、その語と結びついたときに有意味な文を作れるか、ということの理解が「イルカ」という語の理解に既に含まれているように、ある対象aが他の対象bと結び付いて事態を構成しうるのならば、〈a, b〉あるいは〈b, a〉に対応する事態が必ず論理空間に属する*2

 丸括弧の挿入も同様のことを述べているように思われる。しかし、この箇所における「可能的であるにすぎない」とか「事実」とかいった言葉はミスリーディングでは? 「可能的であるにすぎない」とは普通、可能的だが現実には成り立っていない事柄に対して言われることで、だから、成立していない事態は皆「可能的であるにすぎない」と言われうると思われる。「論理の諸事実」という表現も、論理空間に属する可能的な事態全てを指しているのだろうが、論理空間の部分集合である〈成立している事態〉としての事実の集合と混同されうる。

 その次の段落では上記の主張内容が空間・時間の比喩でもって説明されている。「空間」という語に引きずられがちだが、空間的対象にとっての空間にあたるのは、対象にとっては論理空間ではなく事態だろう。対象は事態の構成要素として導入されているので、定義上、いかなる事態の構成要素でもないような対象というものを考えることはできない。

 最後の段落で言われているのは次のようなことだろう。ある対象を考えることができるためには、その対象を構成要素としてもつ可能的な事態を全て知っている必要がある。ところで、その対象をある事態の構成要素として考えることができるならば、その事態は可能的なのであり、それゆえ、その事態は、その対象を考えるために知られていなければならない諸事態のうちのひとつである。よって、その事態の可能性を知らなければ、その対象を考えることはできない。

 

振り返り

 2.012で打ち出した路線でそれほど間違っていない気はしてきた。論理空間の定義から天下り式に説明してゆく、という方式が採られていないので、〈論理空間は可能的な諸事態全ての集合である〉ということを前提してしまうと、何が説明されているのか分からなくなるのかもしれない。あと、最後の段落へのコメントで「ある対象を考えることができるためには、その対象を構成要素としてもつ可能的な事態を全て知っている必要がある」と書いたが、こんなことはまだ明示的には言われていない。しかし、これを前提しないと読めないように思える。

*1:訳者挿入は[]で示す。

*2:しかし、これは論理空間の構成からして自明では? とも思ったが、よく考えると論理空間の定義はまだなされていない。この箇所では、可能的な事態であれば必ず論理空間に属する、ということが、論理空間の定義に先立って強調されている、ということなのかもしれない。

『論考』 2-2.012

  • タイトルに『論考』とある一連の記事は、Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus (1921) の読書ノートです。
  • 翻訳の底本には Routledge が1961年に出した独英対訳版の第2版を使っています(英訳は D. F. Pears と B. F. McGuiness による)。独文は Suhrkamp が出しているウィトゲンシュタインLogisch-philosophische Abhandlung に依拠しているらしいです。
  • 邦訳は野矢茂樹訳(岩波書店、2003)を参考にし、基本的に訳語もそれに倣います。
  • 原文をアフォリズム番号と共に載せ、その下に翻訳とコメント(ただのパラフレーズであることが多い)を書いていくという形式にしようと思っています。

 

2    Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten.

 成り立っていること、すなわち事実とは、諸事態のうちで存立*1しているもののことである。

 

コメント

 1の読解で既に先取りして使っていた箇所。可能な事態の集合の entrance condition に「xは存立している」を加えると事実の集合が得られる。事実の集合は事態の集合の部分集合である。なお、1.12(の前提)より、事態は成り立っているもの(事実)と成り立っていないものに二分されるといえる。

 

2.01    Der Sachverhalt ist eine Verbindung von Gegenständen (Sachen, Dingen).

 事態とは諸対象(諸事物、諸物)の結合である。

 

コメント

 これから、1.1で先送りにされていた、事態と物(対象)の関係が説明される。

 「結合」の意味はこれだけ読んでも全然分からない。今後の展開を見るに、文が語同士の結合であるように、事態は対象同士の結合である、といったことが言われていそう。すると、n項の対象結合操作ε_n(対象から事態への関数)のようなものを考えて、対象a_1, a_2, ...a_nについてε_n(a_1, a_2, ... a_n)がある事態eを値としてとる、という感じだろうか*2

 ところで、アフォリズム番号1番台には1.0番台がなかった。なぜだろう。

 

2.011    Es ist dem Ding wesentlich, der Bestandteil eines Sachverhaltes sein zu können.

 ある事態の構成要素になりうることは物にとって本質的である。

 

コメント

 〈いかなる物も何らかの事態の構成要素になりうる〉または〈いかなる事態の構成要素にもなりえない物は存在しない〉と読む。他の対象と結びつきえない孤立的な対象といったものを想定することが拒否されている。

 事態が文に、対象が語に対応すると考えるならば、語の意味はその語が出現する文の真理値への寄与であるという考え方と類比的か。

 話は変わるが、このアフォリズムにおいて「なりうる」が表現している可能性とはどういった意味における可能性なのだろう。1.21で『論考』における様相の扱いについて疑問を呈したが、基本的に『論考』のアフォリズムに「しうる」とか「しなければならない」とかいった表現が出てくると戸惑う。今は違和感や引っ掛かりの表明しかできないが、今後も様相については注意して読み進めたい。

 

2.012    In der Logik ist nichts zufällig: Wenn das Ding im Sachverhalt vorkommen kann, so muß die Möglichkeit des Sachverhaltes im Ding bereits präjudiziert sein.

 論理において偶然的なものはない。つまり、物が事態の内に現れうるのであれば、その事態の可能性は物において既に先取りされているのでなければならない。

 

コメント

 「論理において」や「偶然的」の意味は全然分からないので、後半のパラフレーズを手掛かりに考える。

 2.011より、tが対象→tがそれの構成要素でありうるような事態が存在する、といえる。その事態をeと名づけよう。このとき、eの可能性はtにおいて先取りされていなければならない……。

 これでも全然意味が分からないので、まず〈eが可能的である〉の意味を考える。単純化のため、eを構成する対象はaとbの2つしかないとする。すると、eが可能的であるということは、aとbの結合が可能的であるということである。逆に、eが可能的でないということは、aとbの結合が可能的でないということである。aとbの結合が可能的でないというケースはあるのだろうか? 2.01では結合を、対象を入力すると事態を返すような操作として考えた。ここでは2項操作ε_2を考えるとして、その操作の定義域が対象の集合上の2項関係であるならば、そこからとって来られた順序対〈a, b〉をε_2に入力したら、必ずある事態eが返されるはずである。aとbの結合が可能でないというのは、ε_2(a, b)が定義されていない場合であり、それは要するに〈a, b〉が対象の集合上の2関係の要素でない場合であり、aかbが対象でない場合である。逆にaもbもちゃんと対象の集合に入っているならば、ε_2をちゃんと定義してやればaとbの結合は可能になる。aとbの結合が不可能であるとはどういう状況だろう?

 もしかすると、どんな対象x, yに対してもある事態zを返すような万能な2項結合操作など存在しないのかもしれない。結合操作には様々な種類があり、どの操作の定義域も対象全体の集合上の2項関係を覆ってはいない。そのため、ある操作に対して対象を適当に2つ入力してもその値は定義されていないということがありうる。つまり、対象a, bに対して、それらの結合が可能的であるというのではだめで、それらの結合がこれこれの操作に対しては可能的、といわなければならない。ということは、2.011の主張も2項結合については次のようになるのではないか。〈tが対象→〈t, y〉あるいは〈y, t〉がある2項結合操作ε_2の定義域に属するような対象yが存在する〉。

 この線でいくと〈eの可能性はtにおいて先取りされていなければならない〉はどうなるだろう。〈ある2項結合操作ε_2について、〈t, y〉あるいは〈y, t〉を入力したときの値が定義されているようなyが存在するか否かは、tの選び方だけから決まる〉。

 すると、「論理において偶然的なものはない」の意味は〈いかなる結合操作に対しても、ある対象がその操作によって何らかの別の対象と結びつけられて何らかの事態を構成しうるかどうかは、最初の対象の選び方だけから決定される〉となる。あるいは、事態構成可能性判定関数みたいなものが存在して、そいつに対象と結合操作をひとつずつ入力してやれば結合可能性か結合不可能性かのどちらかを出力してくれる、ということか。

 

振り返り

 意味が分からなすぎて長い話をでっち上げてしまった。多分間違っている気がするが、とりあえずこういう方針で理解するとして、今後おかしい点に気づいたら修正していきたい。

 

 

*1:野矢訳は「成立」。der Fall sein を「成り立っている」と訳したので、区別するために bestehen を「存立している」と訳す。

*2:n項? たとえば、he, is, a, boy という4語に対して He is a boy. という文を返す操作は4項操作である。しかし、he, is, a, tall, boy という5語に対しては? 5項操作が必要になる。すると、必要な操作の種類は無際限に増える。文結合(文と文をくっつけて文を作る)の場合、単純な2項操作をいくつか定義すれば、その操作を繰り返し適用することでいくらでも複雑な文を作れる。しかし、語から文を作るときにはそう単純にはいかないように思える。同様のことが対象の結合にも当て嵌まる?

『論考』 1-1.21

  • タイトルに『論考』とある一連の記事は、Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus (1921) の読書ノートです。
  • 翻訳の底本には Routledge が1961年に出した独英対訳版の第2版を使っています(英訳は D. F. Pears と B. F. McGuiness による)。独文は Suhrkamp が出しているウィトゲンシュタインLogisch-philosophische Abhandlung に依拠しているらしいです。
  • 邦訳は野矢茂樹訳(岩波書店、2003)を参考にし、基本的に訳語もそれに倣います。
  • 原文をアフォリズム番号と共に載せ、その下に翻訳とコメント(ただのパラフレーズであることが多い)を書いていくという形式にしようと思っています。
  • 序文は後回しにします。

 

1    Die Welt ist alles, was der Fall ist.

 世界とは、成り立っている*1こと全ての集まり*2である。

 

コメント

 「世界」の定義。世界は成り立っているようなxの集合である。xが成り立っていることの必要十分条件はまだ分からないが、2を見る限り、次のようにいえそう。

 xは成り立っている iff xは事態(Sachverhalt) and xは存立している(bestehen)。

事態が何なのかは2以降で説明される。

 

1.1    Die Welt ist die Gesamtheit der Tatsachen, nicht der Dinge.

 世界は諸事実の総体であり、諸物の総体ではない。

 

コメント

 2などを見ると、成り立っていることと事実であることは同義と考えてよさそう。だとすると、この文の前半(「世界は諸事実の総体である」)は1と同じことを言っている。新しい主張は後半で、世界は物であるようなxの集合ではないと言われている。このことから、事実≠物がいえる。事実と物の関係に関しては2以降で説明される。

 

1.11    Die Welt ist durch die Tatsachen bestimmt und dadurch, daß es alle*3 Tatsachen sind.

 世界は諸事実によって規定されており、また、それらの諸事実が*4全ての諸事実であるということによって規定されている。

 

コメント

 「規定されている」ということの意味がよく分からない。前半の主張(「世界は諸事実によって規定されている」)について、事実が異なれば世界も異なる、という話なのだとすれば、それは1の定義と外延性公理から出てくる。後半については、全ての事実を尽くせていないならば世界ではないという話なのだとすれば、それも1の定義から出てくる。こう解釈すると、1.11は特に新しいことを言っていないことになるし、「全ての」が強調されている理由もよく分からなくなる。

 

1.12    Denn, die Gesamtheit der Tatsachen bestimmt, was der Fall ist und auch, was alles nicht der Fall ist.

 というのは、諸事実の総体は、成り立っていること*5を規定し、かつ、成り立っていないようないかなるものをも規定するからである。

 

コメント

 どの事態が成立しているかを全て決めれば、どの事態が成立していないかも自動的に全て決まる。1.11の強調点はこのことにあったのかもしれないが、さっきの解釈だと1.11の内容は1の定義から出てくるので、1.12が1.11の理由になっているようには見えない。

 また、1.12を出すには、2に加え、〈いかなる事態も成立しているかいないかのいずれかである〉を前提しなければならないように思える。

 

1.13    Die Tatsachen im logischen Raum sind die Welt.

 論理空間内の諸事実が世界である。

 

コメント

 論理空間の説明は後々なされる。とりあえず、事態であるようなxの集合だと考えておけばいいか。すると、世界は論理空間の部分集合であるということになる。

 

1.2    Die Welt zerfällt in Tatsachen.

 世界は諸事実へと分かれる。

 

コメント

 「分かれる」ということの意味が分からない。〈世界は事実の総体である〉以上のことを言っているのだろうか。多分、1.2の実質的な主張内容は1.21でパラフレーズされている気がする。

 

1.21    Eines Kann der Fall sein oder nicht der Fall sein und alles übrige gleich bleiben.

 あるものが成り立っていたり、成り立っていなかったりしつつ、残りのものの成立・不成立は変わらないままである、ということがありうる。

 

コメント

 論理空間における事態の成立・不成立が互いに独立であるといわれている。

 これだと可能性・必然性の様相はどうなるんだろう、とちょっと思ったが、到達可能性まわりの話とかちゃんと整理できていないので、また今度考えたい。

 

振り返り

 「世界」の定義とその説明という感じで、この時点で議論すべきことを見つけられなかった。意味の分からない箇所は結構あるし、誤って理解している箇所もある気がするので、読み進めて気づくことがあれば戻ってきたい。

*1:野矢訳は「成立していることがら」。Fall は英語の case にあたる語で、現に成り立っている事例・状況を意味する。

*2:「集まり」は超意訳。「~であるようなことの全て」だとよく意味が分からないと思ったので。

*3:原文中のゲシュペルトは原文・訳文ともに太字で記す。

*4:es のとり方に不安がある。まあ普通に直前の die Tatsachen で、「世界を規定しているそれら諸事実が~」という感じだろう。

*5:「何が成り立っているか」の方が通りがいいのかもしれないが、間接疑問文として処理すると、後半の was alles の扱いに困る。